立候補にいたる道、なぜ還暦親父が日本保守党に?その1

弁当の移動販売している60歳のおっさんが、日本保守党から衆院選に立候補し国会議員を目指す決意するようになるまでの人生を振り返る。
冨田いたる 2024.11.13
誰でも

還暦にして人生が大きく変わったこと

「人生、何が起こるかわからないもので」

これ、私がひょんなことから出馬した2024年10月の衆議院議員選挙の街頭演説で、何度も口にしたものです。

実のところ自分が選挙に、しかも衆院選に立候補するなど考えたこともありませんでした。

ところが選挙戦の12日間、さまざまな体験をし、多くの人々と関わることで、自分の人生に対する向き合い方が変わっていきました。

そして自分自身が国会議員になって、政治にきちんと取り組んでいきたいと決意することになったのです。

選挙戦を通じて、私が体験したこと、考えたことなどは、これからおいおい語っていこうと思います。

今回は、冨田いたるという男が、どのような60年の人生を歩んできたのか、ザックリと駆け足で振り返ってみます。

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弁当の移動販売を副業にしながら国政に打って出ることを本気で目指す還暦でゲイの”冨田いたる”が、世の中の、そして政治に関して「おかしいと思うことをおかしい」と指摘していきます。サポートメンバーのご支援のおかげで、政治活動を続けていくことができます。”冨田いたる”を国会に送り出してやろうと応援していただける方は、ぜひ下記ボタンから月額のサポートメンバーをご検討ください。

生まれは新潟、育ちは別府

昭和39年8月20日、東京オリンピックを2ヶ月後に控えた頃、私は新潟市で冨田家の三男坊として生まれました。

その2ヶ月前には新潟は大きな地震に襲われています。

大地震とオリンピックの狭間、喧騒に包まれた時期に生まれたのは、まるで自分の人生を象徴しているようだと感じます。

父は長崎県の出身、母は日本統治下の韓国・大邱で生まれ、戦後は祖父の故郷である大分県に戻ってきました。

九州出身の両親が結婚し、父の仕事の関係で新潟に住んでいた頃に、我が家の三兄弟は生まれたのです。

小学校1年生を終えるまで過ごした新潟市ですが、自分の中での記憶は結構ぼんやりしており、冬になるとかなり雪が積もったことや、夏場の枝豆の旨さや、笹団子やちまきが好きだったことくらいしか印象に残っていません。

小学校2年になる前に、九州に帰ることになりました。

父は本当は長崎に戻りたかったのですが、仕事の関係で大分県別府市に居を構えることにしました。

別府市で私は、高校卒業までの11年間を過ごします。

子供時代から多感な青春時代を生きたのですから、別府での記憶は新潟とは比べものにならないほど鮮やかに残っています。

ですので、「どちらの出身ですか?」と尋ねられると、自然と「九州の別府です」と答えるようになりました。

親不孝な博多の予備校生

高校時代はラグビー部でありながら、文芸部にも籍をおいたり、文化祭実行委員長をやったりと、とにかく好奇心が旺盛でいろいろなことに首を突っ込んでみたくなる生徒でした。

そんな生活をしていれば勉強に集中できるはずもなく、そのくせ志望だけは「早稲田か慶應」と高望みで現役合格など夢のまた夢。

見事に入試には失敗して、高校卒業後は福岡県福岡市(博多と呼ぶ方がしっくりきますが)の予備校に通うことになります。

さて、選挙戦の街頭演説でも語ってきたように、自分はゲイであることを隠さずに公言しております。

「女の子ではなく、男が好きなんだ」と自覚したのは小学4年くらいのこと。

昭和40年代ですから、当時にしては早熟な方だったのでしょう。

とはいえ田舎町の別府では何が起きるわけでもなく、ゲイの人たちと本格的に関わるようになったのは予備校時代のことでした。

そのあたりのこともまた機会があれば語りますが、「親不孝通り(現在は”親富孝通り”)」と呼ばれていた通りにあった予備校に通っていた時代は、まさに「親不孝」な時間を過ごしておりました。

そして2浪の末に、早稲田大学第二文学部になんとか入学することができたのです。

名は体を表してしまった大学時代

私の名前は「格」と書いて「いたる」と読みます。

父によるとこの名前は、「格物致知(かくぶつちち)」からとったものだと言われました。

これは中国の戦国時代の思想書『大学』の中にある言葉で、父は私に「物に格りて知を致す」、つまり「机上の学問よりも、実際に体験することから物事の真理を学んでいく」という意味を込めて名付けたと言いました。

「名は体を表す」とはよく言ったもので、私は学校で勉強することが本当に苦手で、大学には入ったもののアルバイトで社会経験を積むことの方に喜びを覚えてしまうようになります。

夏休みはディズニーランドの清掃業務に汗を流し、それから大久保の飲食店でホールや厨房の仕事にハマり、その後某大手企業の社内報ビデオ制作の仕事に就くことができました。

この仕事が実に面白くて、学校もそっちのけで1日の大半の時間を当時、新橋にあったその会社のビルのビデオ用の小部屋で過ごすようになりました。

大学入学は1985年、ビデオ制作のバイトを始めたのが1986年、時代はバブルにさしかかる頃であります。

学生バイトが手にするにはあまりに高額な給与を毎月もらうようになり、バイトと新宿二丁目に入り浸る日々が始まります。

アルバイトを通じても、また新宿二丁目でも、多彩な人々と知り合い、後々の人生に役立つこともたくさん学ぶことができました。

とはいえ、本来やるべき大学での学びを疎かにし過ぎてしまったことは、反省するしかないです。

こうやって自分の人生を振り返る文章を書き始めたものの、学生時代のあまりの親不孝ぶり、ダメっぷりと直面せざるをえなくなり、正直、己の半生を振り返ることを後悔しております、恥ずかし過ぎて。

しかし、初めた以上は止めるわけにはまいりません。

次回は大学を中退して、仕事に専念し始めてからの人生を振り返ることにします。

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