立候補にいたる道、なぜ還暦親父が日本保守党に?その2
テレビ制作会社から有名企業へ出向
前回白状したように、自分は大学にほとんど行かずバイトに明け暮れていたわけでありまして、もっと早く中退するという結論を出せばよかったのですが、バイト先の高待遇が居心地良すぎてぐずぐず時間を過ごしておりました。
しかし、バブルがはじけて狂乱が収まってしまうと、バイト先の会社も無駄な部門の整理を始めます。
私の仕事などその最たるものでありまして、長く続いたバイトともお別れせざるを得なくなりました。
それを契機に、籍だけおいている状態だった大学に中退届を出し、きちんと就職先を探すことに。
知り合いの就職情報誌の営業の人が、「君にピッタリの仕事があるから」と紹介してくれたのが、とあるテレビの制作会社です。
募集していたのはテレビ番組の制作スタッフではなく、有名企業に出向して社内報ビデオを作るという仕事でした。
それまでの業務の延長線上にある仕事なので面接も難なくパスすることができて、正社員として雇ってもらいました。
有名企業に出向するのですからワイシャツにネクタイは必須、人生で初めてネクタイをする生活をすることになったのです。
一応クリエイターという自負だけはあったので、どうせならネクタイで自己主張してやろうと考えて、やたらと派手なネクタイを毎日しておりました。
まだ20代でしたし、若気の至りといいますか、拗らせた感じがしてお恥ずかしい限りであります。
仕事自体は特に面白くもつまらなくもなく、ただ刺激がない日々が続いておりました。
社内報のビデオを作ってるだけじゃつまらない、と考え、テレビ番組の企画書もどきを何本も書いて自分の会社に提出したことは覚えております。
某テレビ局で採用寸前までいったものもあったのですが、局の方針で自社パブリシティ番組へと企画自体が変更になって没という経験もしました。
テレビの制作会社ですから安月給だったので、自宅の近所にオープンした深夜までやっているスーパーで、夜間の品出しの副業も並行してやっていました。
このまま何年もこんな生活が続いていくのかな、とぼんやり考えていたら、勤め始めて1年が過ぎたころ、いきなり会社自体が解散するという事態になったのです。

弁当の移動販売を副業にしながら国政に打って出ることを本気で目指す還暦でゲイの”冨田いたる”が、世の中の、そして政治に関して「おかしいと思うことをおかしい」と指摘していきます。サポートメンバーのご支援のおかげで、政治活動を続けていくことができます。”冨田いたる”を国会に送り出してやろうと応援していただける方は、ぜひ下記ボタンから月額のサポートメンバーをご検討ください。
音楽事務所のマネージャーに転身
テレビの制作会社が解散するにあたり、3つの会社に分かれることになりました。
そのうち2つの会社から声をかけてもらったのですが、面接で自分を選んでくれた人が社長となる小さな音楽事務所に就職することを選択しました。
所属アーティストはメジャーデビューした直後の女性シンガー1人だけ。
私は彼女のマネージャーになりました。
とはいえ、音楽や芸能の仕事は初めてで、社長にもノウハウがあるわけではありません。
所属レーベルの宣伝担当の方に一から教えてもらいながら、彼女の売り込みに精を出しました。
彼女がメジャーな世界で花開くことはなく、マネージャーとしての私は1年でお払い箱になってしまったのですが、この1年間は自分的には「仕事が楽しい」という記憶だけが残っています。
考えてみれば、右も左も分からないという状態は、この前の衆院選と同じです。
いきなり放り込まれて嵐のような環境の中でもがく、ということが実は好きなのかもしれません。
もちろん楽しいばかりではなく、大変なこともありました。
マネージャー業務でもっとも苦労したのは、アーティストの彼女との意思疎通が上手くできなかったことです。
「あのとき、ああすれば良かった」「こう尋ねるべきだった」という後悔は多々あって、それはその後の仕事をするうえでの糧となっています。
マネージャーを辞めて数年後、彼女とバッタリ電車の中で再会して、そのまま居酒屋に飲みにいきました。
そこでお互いに、若さゆえにぶつかりあってしまったことを後悔していたと話しあい、それからはいい友人となることができました。
この数年、夏になると一緒に松田聖子のコンサートに行っています。
彼女は今でも音楽活動を続けており、最近は松田聖子の曲だけ歌うという小さなライブを定期的に開催していて、私は毎回欠かさずに通っています。
創刊号からゲイ雑誌の編集者となる
マネージャーの仕事がなくなり、人生で初めて失業保険をもらいながら職探しをする生活をはじめした。
実は大学時代に一年ほどライターの仕事を掛け持ちでやっていたことがあります。
あるとき新宿二丁目のゲイバーで、自分がライターをやっていたことを知っていた年長の知り合いからこう声をかけられました。
「今、新しいゲイ雑誌を創刊させようとしているんだけど、編集部に遊びに来ない?」
それが1995年4月に創刊した『G-men(ジーメン)』というゲイ雑誌で、その知り合いは初代の編集長だったのです。
最初はね、腰掛けのつもりだったのです。
「ゲイ雑誌の編集者という職歴がつくと、次の就職が難しくなるのではないかな」
正直、そんな恐れもありました。
ゲイが問題というよりも、いわゆる「エロ本」の編集者となることに躊躇してしまったのです。
そこで、アルバイトで創刊号から関わらせてもらうことにしました。
当時はパソ通が隆盛の時代で、インターネットはまだまだ一般的ではなく、読者とのコミュニケーションは手紙が中心でした。
毎日のように読者の方から感想や意見が寄せられてきて、そのすべてに目を通すことが日課となっていきました。
創刊号では3ページの企画ものを担当しただけですが、2号目からは男性ヌードのグラビアページにも企画段階から関わったり、連載コラムを持つようにもなりました。
自分が担当したページに、読者のみなさんから好意的な反応をいただくことが増えてくると、確実な手応えを感じられるようになってきました。
ゲイ雑誌の読者はゲイのみで、しかも『G-men』は私が好むタイプの男性をとりあげる雑誌です。
つまり、私が「これ、いいよね」と感じるものを、同じように「いいね」と感じてくれる読者が少なくないということです。
まさに「打てば響く」というしかない、読者と編集部の関係性にすっかりハマってしまいました。
そしてバイトではなく、社員編集者にしてくださいと編集長に頼み込んだのです。
まさか、そこから20年もゲイ雑誌の編集を続けることになるとは予想もしておりませんでしたが。
次回は、自分が政治の道を進んでいく上で指標をゲイ雑誌編集者時代に学んだということや、ライバル雑誌の編集者だったマツコ・デラックスとの「デラックスな長電話」などを振り返ります。
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