立候補にいたる道、なぜ還暦親父が日本保守党に?その4

弁当の移動販売している60歳のおっさんが、日本保守党から衆院選に立候補し国会議員を目指す決意するようになるまでの人生を振り返る。
冨田いたる 2024.11.19
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それは偶然でないと感じた日

今回は、大人になってからの両親との関わりについて記してみようと思います。

両親は結婚後、仕事の関係で新潟で暮らしており、そこでウチの三兄弟は生まれました。

末っ子の自分が小学2年生になるときに、大分県別府市に転居します。

そして、私が高校を卒業するのに合わせて、父の故郷である長崎に両親は引っ越しました。

そのため私が帰省する場所は、別府ではなく長崎となったのです。

そのまま長崎で暮らし続けるのかと思っておりましたが、10年ほどして福岡県北九州市に転居しました。

今度は帰省先が北九州市に変わりました。

住み慣れた別府に帰省できない寂しさはありましたが、長崎にしても北九州にしても、詳しくなかった土地に何度も行くことで、そのエリアを自分なりに開拓するような楽しみも覚えていました。

さて、私は30歳になる年にゲイ雑誌編集の仕事に就きました。

就職して3年目の9月のこと、遅い夏休みをとることにして、沖縄に遊びに行った帰りに北九州の実家に帰省することにしました。

仕事が面白くなるにつれ、両親にカミングアウトする方がいいかな、と考えるようになっていて、実はこの帰省がチャンスだと考えていました。

ところが、私が北九州に着いた日に、父が体調を崩して入院してしまったのです。

まずは病院に行き父の見舞いをしてから実家に帰り、母と夕食をとりました。

「父さんの病気、悪化しないといいのだけど」と心配する母を前にして私は、「今、母にカミングアウトするのはフェアじゃないな」と考え、カミングアウトは見送ることにしました。

さらに母は「このまま父さんにもしものことがあったら、母さんはどうすればいいのかしら」と言い出しました。

私はすかさず「僕は結婚する気もないし、兄弟はみんな関東にいるんだから、母さんは僕とくらせばいいじゃない」と言いました。

ゲイだとカミングアウトはしなかったけれど、一生結婚することがないのは事実であるし、独身の自分と暮らせば嫁姑の問題も起きることはないわけです。

母にとっても、自分にとっても、それが一番いい形なのだと素直に思いました。

ところが、母の危惧は現実のものとなりました。

入院から3週間で、父が亡くなってしまったのです。

2013年、編集長をやっていた49歳の頃。会社の近くの行きつけの中華料理屋で。

2013年、編集長をやっていた49歳の頃。会社の近くの行きつけの中華料理屋で。

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  • 15年ぶりの母との暮らし
  • 母の手料理が健康を支えてくれた

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